丹波市観光協会製作

お寺の建物
 
本堂と庫裏
 現在の本堂や庫裏は、天保年間(1840年)に焼失後再建されたもので、本堂は二層屋根になっており、唐風を連想させるものがあります。

                                         
本堂入り口




本堂軒下の彫り物 (中井権次一統)

本堂軒下には「中井権次一統」の手による多くの彫り物がありますが 特に大きなもの5つを紹介します
下の5つの写真にマウスを置くと大きな画像になります 
                  
左端の彫刻       左の彫刻       正面中央の彫刻       右の彫刻       右端の彫刻


       


由来と本尊

永谷山円通寺創建の由来

 円通寺は、南北朝時代永徳二年(1382年)の正月に、時の将軍足利義満が、後円融天皇の勅命を奉じて創建しました。今日まで六百余年の歳月を経た、曹洞宗の古刹です。
 年号の首字より「永谷山(ようこくざん)」、天皇の宝号より「円通寺(えんつうじ)」と名付け、勅願寺と定めました。
 室町時代から江戸末期まで、二百余の末寺院と一千石を越える寺領を有し、丹波はもとより但馬、播磨、攝津にかけて君臨していました。
 




円通寺のご本尊

 ご本尊は如意輪観世音菩薩像です。
 後小松天皇が南北朝合体を祈願して、一刀三礼し、
御自らお彫りになったものを下賜されたと伝えられます。

 

 
 
二つの家紋

由緒を物語る二つの家紋

 ご本堂の屋根やお寺のあちこちに足利家の家紋「円に二引きの紋」と近衛家の家紋「近衛牡丹紋」が多く見られます。ご開山が足利尊氏の第四子英仲法俊、第二代が関白近衛道嗣の第三子牧翁性欽であることに拠ります。
 当時の武門と公家の最高位者の子弟を送り込んだことは、創建当時の尋常ならざる事情が伺えます。

 円通寺の屋根瓦や塀などのあちこちに家紋が刻まれています。探してみるのも面白いでしょう。 
まる
円に二引きの紋
 近衛牡丹紋


塀の5本線は天皇家との縁が深いことを表します
 



光秀と円通寺

明智光秀と円通寺

 織田信長の中国攻略に伴う明智光秀の丹波攻めにより、この地の寺社仏閣は悉く焼き払われました。
 
この寺にも軍勢が近づいた時、豪氏荻野喜右衛門が光秀の本陣に赴き必死の説得の結果、兵火を免れたと寺伝は記しています。
 この寺の貫禄に暴挙を慎んだ光秀直筆の下馬札と禁制が遺されています。

      
 下馬札  禁制
 

   
日置黙仙

大本山永平寺六十六世 日置黙仙禅師
   
    
 日置黙仙禅師は円通寺四十世住職で、後に大本山永平寺の貫首・曹洞宗管長にまでなられた高僧です。
 10歳の時、可愛がっていた弟が2歳で亡くなると、世の無常を強く感じ、12歳で出家し、15歳で因幡の国中興寺で得度し名を「黙仙」と改めました。その後、数々の徳を積み重ね、明治7年(1874)11月15日 28歳で円通寺に転住され、円通寺第40世の住職となられました。明治時代の廃仏毀釈運動などによって荒廃した円通寺を再建する為東奔西走し、円通寺を復興されました。
 そうした能力を多くの寺院関係者から乞われ、安政の大地震からの可睡齋の復旧、京都誕生寺、名古屋日泰寺(覚王山)の経営に尽力するなど、宗派を超えて仏教界全体に広く貢献されました。多くの功績を残され、開山されたお寺も数多くあります。
 また、国内のみならず海外とも広く交流され、54歳の時にタイへ赴かれたのを皮切りに、日露戦争の英霊供養のため旅順、奉天、韓国を巡られ、その後、ミャンマー、タイ、印度、中国、台湾、アメリカと交流巡錫されました。
 大正6年(1917)1月1日 71歳で、曹洞宗大本山永平寺貫首に就任され、大正9年74歳で亡くなられました。
  
 掛け軸は、永平寺の貫首に選出される前年で、愛知県の覚王山日泰寺の住職であった頃の書です。
 印度のヒマラヤへ天竺の仏陀を訪ね、仏教交流の旅に出られた時のものです。        大正4年(1915年3月)
 
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