![]()
|
||||||||||
本堂軒下の彫り物 (中井権次一統) 本堂軒下には「中井権次一統」の手による多くの彫り物がありますが 特に大きなもの5つを紹介します 下の5つの写真にマウスを置くと大きな画像になります |
||||||||||
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 左端の彫刻 左の彫刻 正面中央の彫刻 右の彫刻 右端の彫刻 |
![]() |
円通寺は、南北朝時代永徳二年(1382年)の正月に、時の将軍足利義満が、後円融天皇の勅命を奉じて創建しました。今日まで六百余年の歳月を経た、曹洞宗の古刹です。 年号の首字より「永谷山(ようこくざん)」、天皇の宝号より「円通寺(えんつうじ)」と名付け、勅願寺と定めました。 室町時代から江戸末期まで、二百余の末寺院と一千石を越える寺領を有し、丹波はもとより但馬、播磨、攝津にかけて君臨していました。 |
円通寺のご本尊
ご本尊は如意輪観世音菩薩像です。 後小松天皇が南北朝合体を祈願して、一刀三礼し、 御自らお彫りになったものを下賜されたと伝えられます。 |
![]() |
ご本堂の屋根やお寺のあちこちに足利家の家紋「円に二引きの紋」と近衛家の家紋「近衛牡丹紋」が多く見られます。ご開山が足利尊氏の第四子英仲法俊、第二代が関白近衛道嗣の第三子牧翁性欽であることに拠ります。 当時の武門と公家の最高位者の子弟を送り込んだことは、創建当時の尋常ならざる事情が伺えます。 |
![]() |
![]() |
![]() |
円通寺の屋根瓦や塀などのあちこちに家紋が刻まれています。探してみるのも面白いでしょう。 | ||
まる 円に二引きの紋 |
近衛牡丹紋 | ||||
塀の5本線は天皇家との縁が深いことを表します |
|||||
![]() |
![]() |
織田信長の中国攻略に伴う明智光秀の丹波攻めにより、この地の寺社仏閣は悉く焼き払われました。 この寺にも軍勢が近づいた時、豪氏荻野喜右衛門が光秀の本陣に赴き必死の説得の結果、兵火を免れたと寺伝は記しています。 この寺の貫禄に暴挙を慎んだ光秀直筆の下馬札と禁制が遺されています。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
下馬札 | 禁制 |
![]() |
右の掛け軸は、永平寺の貫首に選出される前年で、愛知県の覚王山日泰寺の住職であった頃の書です。 仏教交流の旅に出られ、印度からヒマラヤへと天竺の仏陀の足跡を訪れた時の思いを詠まれたものです。 大正4年(1915年3月) |
![]() ⇒ 拡大する |
![]() |